なぜファンクショナルトレーニングなどだけでは足りないと感じるのか

なぜ体操やダンスではなく、哲学や武道に向かうのか

体操選手の動きは美しい。

ダンサーの身体はしなやかで、見ていて無駄がない。

正直、身体能力という意味ではかなり完成されていると思う。

だからふと思う。

「それをそのままトレーニングに取り入れればいいのではないか?」

「CSCSとして、科学的に正しいトレーニングだけをやれば十分なのではないか?」

これはすごく真っ当な問いだと思う。


完成された“結果”を追うという選択

体操やダンスの世界には、すでに高いレベルの“型”がある。

どう動けば美しいか

どう動けば評価されるか

どの方向に身体を使えばいいか

ある程度の前提が共有されている。

その中で精度を上げていく。

これはすごく合理的で、強くなるための近道でもあると思う。

実際、科学的なトレーニングも同じ方向にある。

筋力、パワー、可動域、神経系

それぞれを分解して、再現性のある形で積み上げていく。

ここには「正しさ」がある。


それでも残る違和感

ただ、自分の中にはずっと違和感があった。

同じようにトレーニングしているのに伸びる人と伸びない人がいる。

同じようにフォームを整えても、結果が変わらないことがある。

逆に

「今、何をしたのかわからないけど上手くいった」

「力を入れていないのに、なぜか強い」

そういう瞬間もある。

ここにあるものは、

筋力やフォームでは説明しきれない。


「正しい動き」は存在しない

僕にとって一つの転換点になったのは、

「正しい動きは存在しない。

あるのは、その関係で通る動きだけ」

という考え方だった。

身体だけを見ても意味がない。

相手や環境との関係の中で、はじめて動きが成立する。

つまり、

・どれだけ筋力があっても通らない動きがある

・逆に、小さな力でも通る動きがある

問題は「何をしているか」ではなく

「どういう関係にいるか」だった。


体操やダンスは“結果としての完成形”

ここで最初の問いに戻る。

体操やダンスは確かにレベルが高い。

ただ、それは

“その環境・その前提の中で最適化された結果”

でもあると思う。

だからそのまま取り入れることはできても、

・競技が変わったとき

・相手がいるとき

・予測できない状況のとき

必ずしも同じようには機能しない。


僕が求めているもの

僕にとって大事なのは、

「上手くなる方法」よりも

「なぜ上手くなるのかに触れられること」

だと思う。

・条件が変わっても通るもの

・再現できるもの

・偶然ではなく、意図して起こせるもの

そういうものを探している。


だから哲学や武道に向かう

この領域に入ると、

一気に言葉が曖昧になる。

虚と実

脱力

消える

溶ける

一見すると、科学とは真逆に見える。

でも実際は、

“動きが生まれる前の条件”を扱っている

という意味で、むしろ本質に近い。


型ではなく、原理へ

体操やダンスは「美しい波」を教えてくれる。

でも僕は

「なぜ波が生まれるのか」を知りたいと思っている。

水の性質が変われば、波も変わる。

環境が変われば、形も変わる。

ならば、

波そのものではなく

水の在り方に触れた方がいい。


まとめ

体操やダンス、科学的トレーニングは否定するものではない。

むしろ、とても優れている。

ただ、それは

“結果としての最適解”

であって、

“どこでも通用する原理”

ではない。

だから僕は、

少し遠回りに見えるかもしれないけど、

哲学や武道、抽象的な身体操作を通して

その原理に触れようとしている。


僕にとってトレーニングは、

身体を鍛えることでもあり、

同時に、

「何が起きているのかを理解するための手段」でもあると思っている。