世界の見え方が変わった話
— A→Bではなく、A↔Bなのではないか —
相変わらず稽古と研究をしている。
そんな中で、ふと気づいたことがある。
そしてそこから、世界の見え方が大きく変わった。
誰かに教えたいし、共有したいので文章を書いてみることにする。
レッグプレスをしている時、剣を振る時、ダーツにゴルフ。
それらの動作をもっと良くしていこうと考えているときに、あることに気づいた。
わかりやすい例が筋トレなので、まず筋トレを例に話す。
反作用という当たり前の事実
レッグプレスをするとき、台座を押す。
押そうと力を入れ、接触が強くなった途端、反作用が返ってくる。
これは当たり前のことだ。
物理としても、誰でも知っていることだ。
しかし、動作を観察していると、この当たり前の事実の中に、かなり多くのヒントが含まれているように思える。
そして「良い動作」とは、押すという動作に多くの要素が参加している状態とも言える。
例えば
- 姿勢制御
- 拮抗筋の調整
- 予測制御
- バランス
これらがすべて関係している。
そしてこれらの誤差が少なければ少ないほど、余った要素が「押す」という動作に参加できる。
つまり、身体のリソースが一つの目的に集中する。
これは筋トレでもスポーツでも同じだと思う。
ところが、反作用が膝や股関節で大きくぶつかると、膝を安定させるための余計な力が必要になる。
つまり、そこで無駄が生まれる。
筋肉は押すためではなく、壊れないために働き始める。
これはパフォーマンスの観点でも、怪我の観点でもあまり良くない。
ではどうすればいいのか。
反作用は膝ではなく、その反対側、つまりレッグプレスなら背もたれのマットや、マシンを支える地面との関係に返ればいい。
そう考えるようになる。
それを目指して動くと分かる。
「あ、今膝だな」
「今股関節だな」
と気づくようになる。
つまり、自分の身体のどこで反作用を受け止めているかが、だんだん見えてくる。
この観察はとても面白い。
動作を良くするということは、
反作用の行き先を整えること
と言えるのかもしれない。
スイングでも同じことが起きる
スイングも同じだ。
前から言っているが、腰を回すと腰が支点になるので、それ以上回らない。
エネルギーもそこで止まり、怪我にもつながる。
だから見た目は腰を回していても、体は「挟まれた存在」として関係性に入る。
地面とクラブの間に身体が存在し、その関係の中に入る。
そうするとエネルギーは流れ、ボールを打つことができる。
……いや、この「流れる」という表現が、もしかすると自分の悪癖だったのかもしれない。
このあたりから、少し違和感が生まれていた。
クラブを上げようとした瞬間、すでに反作用は返っている。
肩が張る上げ方もあるし、肩が張らない上げ方もある。
地面から力が流れてクラブに重さが乗る?
確かに、水が流れるような時間を感じなくもない。
しかし、その時間さえ変化する。
早く通すこともできるし、長く保つこともできる。
そして長く保ったからといってエネルギーが大きくなるとも限らない。
つまり
時間の使い方とエネルギーの大きさは必ずしも一致しない。
ここに少し引っかかりを感じていた。
この感覚はなんだろう。
A→Bではない
そこで一つのことに気づいた。
A→Bではない。
A↔Bなのではないか。
今までやっていたことは、
A → B → C → D
この「→」を早く移しているだけではないのか。
肩にぶつかるのを胸に。
胸から腰へ。
腰から丹田へ。
丹田から地面へ。
つまり
エネルギーを移している。
そう思っていた。
しかし、この移り変わりをいくら早めても、その先にあるのは
「移すのが早い」
ということだけではないのか。
ここで一つの疑問が生まれる。
もしこの移動を限りなくゼロに近づけたらどうなるのか。
もしエネルギーの移動時間がゼロになったら?
そのとき起きるのは、
A ↔ B ↔ C ↔ D
なのではないか。
つまり
すべてが同時に成立している状態。
すでに触れていた感覚
実はこの感覚、まったく新しいものではなかった。
前から触れていた。
「空間が自分になる」
という感覚だ。
右手を動かすと右手が動く。
これは当たり前だ。
しかし足までも右手と認識して動くと、右手は全身を含む。
右手は右手ではなく、身体全体になる。
ならば自己を相手や空間まで含ませることも、思考実験としてはできる。
そして実際、その感覚で動ける時がある。
つまり
自分だけが動いているわけではない。
関係が動いている。
このとき、反作用は
押した → 返ってきた
ではない。
作用とともに返ってくる。
押したから返ってくるのではなく、
同時に在る。
昔の達人は、もしかするとすでにこれを見つけていたのかもしれない。
陰陽玉太極図のようなイメージだ。
A↔Bではないか
ここまで書いてきて思う。
もしかすると動作というものは
A→B
ではなく
A↔B
なのではないか。
もしそうだとすると、
身体の使い方も、
世界の見え方も、
かなり変わることになる。
次は、この考えに気づいてから起きた変化について書いてみたいと思う。
筋トレ、素振り、稽古、歌、歩き方。
この一週間で、かなり多くのものが変わった。
A↔Bで見始めたとき、動作はどう変わるのか
動作は
A → B
ではなく
A ↔ B
なのではないか、という考えに至った。
押したから返ってくるのではない。
作用と反作用は同時に存在している。
もしそうだとすると、身体の使い方もかなり変わる。
そして実際、この考え方に気づいてから、
一週間ほどの間にいくつかの変化が起きた。
筋トレの考え方は変わり、
素振りも変わり、
稽古で見ているところも変わった。
歌も声の出し方も、歩き方もそうだ。
少し大げさに聞こえるかもしれないが、
世界の見え方が少し変わった。
素振り
まず素振りだ。
以前よりも、感じているものが増えた。
地面のこと。
ベクトル。
音。
空間の雰囲気。
これまでにも感じていたが、
それぞれが別々の情報ではなく、一つの関係として感じられるようになった。
例えば、素振りをするとき。
以前は
「地面を踏む」
「体を回す」
「クラブを振る」
というように、動作を分解して考えていた。
しかしA↔Bで考え始めると、
それらは分解された動作ではなく
同時に成立している関係
として感じられる。
すると面白いことが起きる。
体の
「こうしなければならない」
という指示が、だいぶ減る。
代わりに
「そうなる位置にいる」
という感覚が出てくる。
動作を作るというより、
動作が成立する関係に入る。
そんな感覚に近い。
歌
意外だったのは歌だ。
声の出し方も変わった。
歌うとき、多くの人は
- 喉
- 呼吸
- 姿勢
- 感情
などを個別にコントロールしようとする。
しかしA↔Bで見ると、これらもすべて関係の中にある。
例えば
感情。
恥ずかしさ。
緊張。
これらもすべて関係の一部になる。
すると、自分の中で起きている小さな震えや緊張にも気づくようになる。
震えるのはどこか。
どこが固まっているのか。
そしてそれらがほどけていくと、
声は自然に変わる。
結果として、表現力が少し増した気がする。
無理に表現しようとするのではなく、
関係が変わると声も変わる。
そんな感じだ。
筋トレ
筋トレも変わった。
局所運動が減った。
例えばレッグプレス。
以前はどうしても
「脚で押す」
という意識が強かった。
しかしA↔Bで見ると
脚
背中
マシン
地面
すべてが同時に関係している。
つまり
脚で押しているのではなく、
関係が成立して押されている。
そんな感覚になる。
この感覚を探して動いていると、
いつの間にか倒立ができるようになっていた。
特に練習したわけではない。
おそらく
地面との関係を再現しようとしていた
からだと思う。
稽古
稽古もかなり変わった。
特に「押す」という動作。
以前はどうしても
「どう押すか」
を考えていた。
しかし今は
「どういう関係に入るか」
を見るようになった。
体をエネルギー体として見ているような、
少し俯瞰した視線になる。
例えば相手と接触したとき。
以前なら
こう来たらこう返す
という発想になりやすい。
しかしA↔Bで見ると、
そもそも
その関係の中に入らない位置
を探すようになる。
あるいは
そうなる位置に移動する。
そんな動きになる。
結果として
- 正確性
- 力の大きさ
両方が少し上がった気がする。
合気の「握手落とし」もできるようになった。
なるほど、これが合気なのかもしれない。
……いや、できれば言葉で括りたくはない。
ただ一つ言えるのは、
関係が変わると動作が変わる
ということだ。
世界の見え方
こうして書いてみると、
少し大げさに聞こえるかもしれない。
しかし実際に感じていることはシンプルだ。
すべては影響しあっている。
そしてそれは
順番ではなく
同時に存在している。
この感覚を身体レベルで感じられると、
動作の見え方はかなり変わる。
まだうまく説明できない部分も多いが、
少なくとも
A→Bではなく
A↔B
という見方は、
かなり多くのヒントを含んでいる気がする。
この次はあるのか
ただ、まだ分からないこともある。
例えば
- この関係はどこまで広がるのか
- 空間はどこまで含まれるのか
- 自分という存在はどこにあるのか
考えていると、
少し不思議なところまで話が広がっていく。
最後に、そのあたりについて少し書いてみたいと思う。
まだわからないこと
ここまで書いてきて思う。
A→Bではなく、A↔Bという考え方は、
動作の理解にかなり多くのヒントを与えてくれる。
しかし、同時にいくつかの疑問も生まれる。
この関係は、どこまで広がるのだろうか。
関係はどこまで続くのか
例えばレッグプレス。
脚とプレートの関係だけではない。
プレートはマシンにつながり、
マシンは床につながり、
床は建物につながる。
さらに言えば、
空気
温度
音
視覚
そういったものまで、すべて関係の中に含まれているのかもしれない。
もしそうなら、動作というものは
A ↔ B ↔ C ↔ D ↔ …
という連鎖の中で起きていることになる。
つまり
世界は関係でできている
とも言える。
これは少し大げさに聞こえるかもしれない。
しかし、身体を通して感じていることは、
わりとそれに近い。
空間という感覚
この考えに近づいたとき、
一つの感覚がはっきりしてきた。
それは
空間
という感覚だ。
以前は、身体をどう動かすかを考えていた。
肩はどうするか。
腰はどうするか。
脚はどうするか。
しかしA↔Bで見始めると、
身体よりも先に
空間の状態
を感じるようになる。
空間が張る。
空間がゆるむ。
言葉にすると少し不思議だが、
そういう感覚が確かにある。
そして、その空間の中で身体は動く。
いや、動くというより
動かされている
と言った方が近いかもしれない。
主体はどこにあるのか
ここで一つの疑問が生まれる。
動作の主体はどこにあるのか。
普通は
「自分が動く」
と考える。
しかしA↔Bで見ていると、
その主体が少し曖昧になる。
自分が動いているのか。
それとも
関係の中で動きが生まれているのか。
まだよく分からない。
ただ一つ言えるのは、
自分が無理に動かそうとすると
動作はむしろ悪くなることが多い。
逆に、関係の中に入ったとき、
動作は自然に成立する。
この違いはとても面白い。
まだ探している
ここまで書いてきたことは、
まだ途中の考えだ。
もしかすると勘違いかもしれない。
別の説明があるのかもしれない。
しかし少なくとも、
- 筋トレ
- 素振り
- 稽古
- 歌
- 歩き方
これらすべてにおいて、
見え方が変わったのは確かだ。
そして何より面白い。
身体を動かすことが、
また少し新しい研究になった。
最後に
お互いが影響し合うという事実を、
身体レベル、感覚レベルで感じることができたとき、
世界の見え方が少し変わった。
もちろん、すべてが上手くいくわけではない。
しかしフィードバックや修正の考え方は変わった。
A→Bではない。
A↔Bである。
この事実を否定しないなら、
Aはどう振る舞えばいいのか。
今はまだ、その答えを探しているところだ。