正しい動きは存在しない
「正しい動き」は存在しない あるのは「その関係で通る動き」だけ
トレーニングや技術指導の中で、 「正しいフォーム」「理想の動き」という言葉をよく聞く。
僕自身もかつては、 “どう動くのが正解なのか”を探していた。
腕ではなく体幹で。 体幹ではなく軸で。 より効率的に、より合理的に。
確かに、それによってパフォーマンスは向上する。 でも、あるところで気づく。
その「正しさ」は、本当に普遍的なものなのだろうかと。
同じ動きでも、 相手が変われば、重さが変わる。 スピードが変われば、必要な反応も変わる。
地面の状態、接触の仕方、タイミング。 そのすべてによって、最適な動きは変化する。
つまり、 あらかじめ用意された「正しい動き」があるのではなく、
その瞬間の関係の中で、 “結果として成立した動き”があるだけではないかと思う。
たとえば「押す」という動作で考えてみる。
多くの場合、 人は「強く押そう」とする。
腕に力を入れたり、 体幹を固めたり、 地面を踏ん張ったりする。
するとどうなるか。
一瞬は力が出ているように感じるけれど、 どこかで止まる。
肩で止まる。 腕で止まる。 あるいは、相手にぶつかって止まる。
結果として、重く、苦しい押しになる。
一方で、少しやり方を変える。
相手との接点に意識を置いて、 そこで起きている抵抗をただ感じてみる。
押そうとはしない。
ただ、 「この抵抗に対して身体がどう反応しているか」を見る。
すると不思議なことに、 無理に力を出していないのに、相手が崩れることがある。
このとき、 自分が何かをしたという感覚はほとんどない。
ただ、その関係の中で “通る形”が自然に現れている。
ここにあるのは、
動きを作るという発想ではなく、 関係に従うという発想。
そしてもう一つ大きいのは、 自分で何かをしようとした瞬間に、 その通りは止まりやすいということ。
力を出そうとする。 正しく動こうとする。 コントロールしようとする。
それらは一見正しい努力に見えるけれど、 同時に関係を分断してしまう要因にもなる。
だから最近は、 何かを足すよりも、削ることを考えるようになった。
余計な力み。 余計な意図。 余計な操作。
それらを少しずつ外していくと、 不思議と動きは整っていく。
そして残るのは、 自分が動かしているという感覚ではなく、
「そうなった」という感覚。
これはまだ言葉にするのが難しいけれど、 自分の身体でありながら、 どこか他人事のように感じる瞬間がある。
ただ、その状態の方が、 結果として強く、速く、自然に動けている。
だから今のところの僕の結論はこうなる。
「正しい動き」は存在しない。 あるのは、その関係で通る動きだけ。
そしてその動きは、 作ろうとするほど遠ざかり、 関係に従うほど現れてくる。
まだ探っている途中だけど、 少なくとも今は、そう感じている。