最速に対する一つの答え
最速とは何か
──エネルギー保存の疑問から、等速という答えにたどり着くまで
稽古をしていると、ときどき動きそのものよりも、
「あれ、これって本当にそうなんだろうか?」
という疑問の方が強く残ることがあります。
今回の話も、そんな疑問から始まりました。
エネルギー保存で考えたら、最速は同じでは?
以前、居合の抜刀についてこんな話をしました。
鞘だけを大きく動かして抜くよりも、
刀身と鞘を同時に動かし、
いわば「5と5」で抜いた方が最短である、という話です。
これはよく言われる話でもありますし、
自分自身の体感としても納得できるものでした。
ただ、稽古を続けているうちに、
一つの疑問が浮かびました。
もし、抜刀という行為に必要なエネルギーが100だとしたら、
鞘だけを10動かそうが、
刀身と鞘を5ずつ動かそうが、
結局使うエネルギーは100なのではないか。
エネルギー保存の視点で考えると、
どちらも同じ仕事量です。
では、本当に「5と5」の方が速いと言えるのだろうか。
それとも、感覚的にそう思い込んでいるだけなのだろうか。
機械で考えてみる
この疑問を、できるだけ感覚から切り離すために、
一度「機械」で考えてみました。
たとえば、
- 抜刀に必要な仕事量は100
- 使えるエネルギーも最大100
- 鞘だけを引けば100
- 鞘と刀身を同時に引けば50:50
という条件です。
この場合、
エネルギーの総量だけを見れば、
どちらも同じ時間で終わるように思えます。
さらに人体に近づけて考えると、
「モーターが2つある」のではなく、
「1つのモーターを0.5ずつ分配している」
という条件の方が正しい気もしました。
この条件が完全に成立するなら、
最短時間は確かに同じになるはずです。
この時点で、
「やっぱり最速は同じなのでは?」
という考えが、かなり強くなりました。
それでも現実では「両引き」が速い理由
ただ、ここで一つ気づきます。
この思考実験は、
あまりにも理想化されている。
現実の人体や稽古では、
- 出力は瞬時に最大にならない
- 常に一定で出し続けることもできない
- 関節や筋、感覚にはボトルネックがある
- 制御にもコストがかかる
という条件が必ず存在します。
つまり、
エネルギーが同じ = 実際の速さが同じ
にはならない、ということです。
ここで見えてきたのは、
問題はエネルギー量ではなく、
時間あたりにどれだけ仕事が「通るか」
という点でした。
並列運動という視点
刀身と鞘を同時に動かす、というのは、
エネルギーを節約しているわけでも、
距離を短くしているわけでもありません。
実際に起きているのは、
- 刀身側の運動
- 鞘側の運動
- それに伴う反作用
- 重心の安定
といったものが、同時に立ち上がっている状態です。
つまり、
運動が「並列化」されています。
ここで重要なのは、
並列化とは「たくさん動かすこと」ではない、という点です。
目的に対して必要な要素だけが、
最小限で、同時に立ち上がる。
これが成立すると、
有効な相対運動が一気に立ち上がります。
並列は増やせば速くなるのか?
ここで、もう一つ疑問が出てきます。
並列運動が速さに寄与するなら、
たくさんの部位を参加させればさせるほど、
どんどん速くなるのではないか。
しかし、稽古を見返すと、
これは明らかに違います。
動きが速い人ほど、
- 動きが小さく
- 余計な参加がなく
- 静か
に見えます。
並列運動には、
有効な並列と無効な並列があり、
一定の点を超えると、
制御コストや干渉によって、
逆に遅くなってしまいます。
つまり、
並列は増やすほど速くなるのではなく、
削り切ったところで最大になる
ということです。
最速とは何か、という問いに戻る
ここまで考えてきて、
「最速とは何か」という問いそのものが、
少しずつ形を変えてきました。
多くの場合、
速さというと、
- 最大速度
- 強い加速
- 勢い
をイメージしがちです。
しかし、居合や極まった人の動きを見ていると、
本当に速い動きは、
速く見えません。
力感がなく、
加速している感じもなく、
気づいたら終わっています。
等速運動が最速、という考え
ここで、
「等速運動が最速なのではないか」
という考えにたどり着きました。
もちろん、物理的に言えば、
完全な等速運動は、
どこかで必ず加速を伴います。
ただし、最速の動きでは、
- 加速が極端に小さく
- 分散され
- 観測できない形で終わっている
結果として、
有効区間のほとんどが
ほぼ等速で進んでいる
ように見えます。
強く加速して、
強く減速するよりも、
加速と減速のコストを極限まで削った運動の方が、
目的達成までの時間は短くなります。
等速は「作るもの」ではない
ここでとても大事なことがあります。
等速は、
意識して作るものではありません。
「等速で動こう」とすると、
必ずどこかで無理が生まれます。
等速は、
- 方向が合い
- 抵抗が消え
- 余計な参加が抜け
- 条件が完成したとき
結果として現れる状態です。
だから、
- 動き出そうとしない
- 速くしようとしない
- 力を足そうとしない
方が、
結果として速くなります。
等速に入る「最初の一瞬」
では、等速に入る最初の一瞬には、
何が起きているのでしょうか。
それは、
動き始めた瞬間
ではなく
動く必要がなくなった瞬間
だと感じています。
構え、間合い、関係性の中に、
すでに動きが含まれている。
だから、
「抜こうとして抜く」のではなく、
「抜けている状態から抜ける」。
このとき、
加速は確かに起きていますが、
どこにも「加速した感覚」が残りません。
エネルギー保存の疑問に戻って
最初の疑問に戻ります。
エネルギー保存で見たら、最速は同じでは?
この問いに、今ならこう答えられます。
理想化された条件では、確かに同じ。 しかし現実の人体と運動では、 他の条件が必ず介在する。
その条件とは、
- 出力の立ち上がり
- 並列の質
- 制御コスト
- 抵抗の有無
そしてそれらを最小化した結果、
等速に近い振る舞いが現れます。
おわりに
結局のところ、
速さとは何か、という問いは、
「どれだけ力を出せるか」ではなく、
「どれだけ条件を整えられるか」
という問いに変わっていきました。
エネルギーを足すのではなく、
邪魔を引く。
動きを作るのではなく、
起きる条件を完成させる。
その先に、
速いのに速く見えない動きがあり、
気づいたら終わっている、という感覚があります。
まだ、完全に言語化できたとは思っていません。
でも、この疑問からここまで辿り着けたこと自体が、
稽古の一つなのだと思っています。