無限に広げると、すべてが含まれる

――「無」「空」「無拍子」を身体感覚から考える

最近の稽古の中で、「無になる」「消える」という言葉の意味が、自分の中で大きく変わった。

以前は、
無とは自己を消すこと、
何も考えないこと、
力を抜き切ること、
そういう方向で捉えていたと思う。

でも、どこかでその理解がしっくりこなくなった。

稽古を続けていて気づいたのは、
どこまでも広げていくと、消えるのではなく、すべてが含まれる
という感覚だった。

しかもその状態は、
ぼんやりするわけでも、無力になるわけでもない。
むしろ、妙に安定していて、力が通り、判断が遅れない。

それを言葉にするなら、
「許されている」
「排除しなくていい」
という感じが近い。

無になるというより、
排除が起きなくなる
という方が正確かもしれない。


無とは「何もしない」ことではなかった

よく「無になれ」と言われるが、
それを操作としてやろうとすると、だいたいうまくいかない。

・考えないようにする
・力を抜こうとする
・自己を消そうとする

こうした行為自体が、すでに「選別」になっている。

稽古の中で起きていたのは、
何かをやめることではなく、
何も足さない・何も引かないという状態だった。

判断はある。
意識もある。
感覚もある。

ただ、それらが
「これはダメ」「これは余計」「これは違う」
という方向に働かない。

判断は存在するが、排除として機能しない。

このとき、
身体は固まらず、
力は局所化せず、
動きは滞らない。

無とは操作ではなく、
構造としてそうなっている状態なのだと思うようになった。


空について考える

ここで、仏教や禅で言われる「空(くう)」という言葉を思い出した。

空というと、
何もない、
虚無、
実体がない、
そんなイメージが先に立ちやすい。

でも本来の空は、
「ない」というよりも、
固定されていないという意味に近い。

・これはこういうもの
・これはこうあるべき
・これは自分
・これは相手

そうした固定ラベルが貼られていない状態。

これを身体感覚に置き換えると、
今の稽古で感じている状態とかなり重なる。

固定されていないから、
・拒まない
・押し返さない
・止めない

結果として、
すべてがそのまま通過していく。

空とは、
「何もない状態」ではなく、
何も固定されていないから、すべてが含まれる状態
なのではないかと思う。


無拍子について考える

武術で言われる「無拍子」も、同じ構造に見えてきた。

無拍子というと、
速すぎて見えない、
起こりがない、
そう説明されることが多い。

でも、それは結果であって、本質ではない気がしている。

拍を刻むというのは、
・準備
・溜め
・切り替え
といった「区切り」を作ることだ。

ではなぜ区切るのか。
それは、全体が最初から含まれていないからだと思う。

一部ずつ足していく必要があるとき、
拍が必要になる。

逆に言えば、
最初からすべてが含まれている状態では、
拍を刻む理由がない。

だから、
無理に速くしなくても速く、
力を入れなくても力が通る。

無拍子とは、
すべてが含まれているがゆえに、拍が現れない状態
なのではないかと思っている。


勝つ前に勝つ、入る前に入る

この構造は、
「勝つ前に勝っている」
「入る前に入っている」
という感覚ともつながる。

未来の結果を作りにいくのではなく、
結果が先に立ち上がり、
現在の動作はそれに付いていく。

だから、
迷いが少なく、
修正が少なく、
余計な力が入らない。

これは信じることでも、
イメージすることでもなく、
排除のない認識構造の結果として起きている。


まとめとして(今のところ)

まとめとして、今のところこう考えている。

・無とは消えることではない
・空とは何もないことではない
・無拍子とは速さの技術ではない

どれも共通しているのは、
排除が起きない構造だ。

無限に広げていくと、
選ばなくてよくなり、
捨てなくてよくなり、
結果としてすべてが含まれる。

それは
許されている、
抵抗がない、
力が通る、
という身体感覚として現れる。

これは完成形でも、悟りでもなく、
今の稽古の地点で触れている感覚の記録にすぎない。

けれど、この理解によって、
「無になる」「消える」という言葉の意味は、
自分の中で確かに反転した。

もう少し、この感覚を稽古の中で確かめていきたいと思う。