後天的天才の構造:第4部

後天的天才の構造⑧

ダーツが教えてくれる「今ここの正体」

ダーツほど、

「考えた瞬間にズレる」ことが

はっきり現れる競技は少ない。

力はいらない。

動きも単純だ。

フォームも大きく変わらない。

それなのに、

考えた瞬間に外れる。

ブルを強く意識したとき。

さっき外した理由を思い出したとき。

「今度こそ」と思ったとき。

ほんの一瞬、

投げる前に評価が立ち上がるだけで、

結果は変わってしまう。

ダーツが面白いのは、

修正する時間がないところだ。

投げ始めてからでは、

もう何も変えられない。

だから、

といったePUBなことは、

すべて「前」にやるしかない。

そして、投げる瞬間には、

それらは一切使えない。

ここに、

今ここの正体がよく表れている。

ダーツがうまい人は、

投げる瞬間に何も考えていない。

でもそれは、

無知だからではない。

そういった情報は、

すべて身体の中にある。

ただし、

それを取り出していない

問いが立ち上がらないから、

選択肢もない。

だから、

迷いが生まれない。

一方で、

うまくいかないときは決まっている。

投げる直前に、

といった確認が入る。

この確認が、

今ここを壊す。

未来の結果や、

過去の評価が、

現在の反応に割り込んでくる。

ダーツでは、

その割り込みが

そのままズレとして現れる。

だからダーツは、

ごまかしが効かない。

狙わない人ほど当たる、

という言葉がある。

これは、

狙っていないから当たる、

という話ではない。

狙いが前に出ていない

という意味だ。

狙いは、

構えるまでに使われる。

投げる瞬間には、

世界に任せる。

この配置が整ったとき、

ダーツは勝手に飛んでいく。

ここで重要なのは、

これはダーツに限った話ではない、

という点だ。

時間が短く、

修正が効かず、

反応が結果に直結する場面では、

同じ構造が現れる。

スポーツでも、

武道でも、

日常の咄嗟の動きでも。

ダーツは、

それを極端に

見せてくれるだけだ。

次回は、

この構造を踏まえたとき、

「教える」という行為が

なぜ難しくなるのか。

教えれば教えるほど、 技が消えてしまう理由を、 少し厳しめに整理してみたい。


後天的天才の構造⑨

教えれば教えるほど、技が消える理由

教えれば、上手くなる。

普通はそう思われている。

理論を説明し、

やり方を示し、

間違いを指摘する。

それで動きが良くなったように見える瞬間も、

確かにある。

でも、少し時間が経つと、

別の問題が現れる。

そして指導者側は、こう思う。

「まだ理解が足りない」

「もっと説明が必要だ」

ここに、

教えることの落とし穴がある。

人が技を身につける過程は、

これまで見てきたように、

という循環だ。

ところが、

教えすぎると何が起きるか。

差分を感じる前に、 答えが与えられてしまう。

すると学習は、

形に変わる。

これは短期的には安定する。

言われた通りに動けば、

それなりの形になるからだ。

でもこのとき、

学習の主導権は

完全に外に移っている。

評価も、

修正も、

基準も、

すべて「教える側」にある。

結果として、

動きは管理された動きになる。

ここで言語の問題が出てくる。

言語は便利だ。

区別を共有できる。

理解を早める。

ただし言語は、

という性質も持っている。

教えれば教えるほど、

学ぶ側は、

を気にしながら動くようになる。

これは安心感と引き換えに、

反応の自由度を失う。

武道的な動きや、

一流の反応が

教えにくいのはこのためだ。

言葉にした瞬間、

それは「やり方」になり、

「正解」になる。

正解になった瞬間、

今ここの反応は

評価の対象に変わる。

すると、

技は消える。

これは、

教える側が悪いという話ではない。

むしろ、

教えようとするほど、

この罠にはまりやすい。

では、

どうすればいいのか。

答えは意外とシンプルだ。

教えようとしない。

もちろん、

何も言うな、という意味ではない。

そして何より、

更新の主体を、 学ぶ側に返す。

指導とは、

動きを作ることではない。

動きが生まれる

環境を整えることだ。

距離。

タイミング。

課題の設定。

制限。

それらによって、

自然に差分が生まれる状況を作る。

そこで本人が更新する。

このとき、

言葉は最小限でいい。

振り返りのために使い、

動作の最中には持ち込まない。

教えれば教えるほど、

技が消える。

でも逆に言えば、

教えすぎなければ、 技は育つ。

次回はいよいよ最終回。

これまでの話を、

「世界の見方」という少し大きな枠でまとめたい。

上手くなるとは何か。

今こことは何か。

そして、

人はどうやって

その場に戻ってこれるのか。


後天的天才の構造⑩

世界が問題になる前に

上手くなりたい。

成長したい。

失敗したくない。

そう思うこと自体は、

とても自然なことだ。

でも、その思いが強くなりすぎたとき、

人はいつの間にか

「世界」を問題として扱い始める。

この状況は正しいのか。

この動きは合っているのか。

この結果は評価に値するのか。

気づけば、

今起きていることはすべて

判断と比較の対象になる。

そしてその瞬間、

今ここは遠ざかる。

このシリーズでは、

才能や根性の話はしてこなかった。

代わりに、

そんな構造の話をしてきた。

ここで、

「今ここ」とは何だったのかを、

もう一度だけ整理しておきたい。

今こことは、

集中した状態でも、

無心の状態でもない。

世界が、まだ“問題”になっていない状態

のことだ。

正しいかどうか。

成功か失敗か。

意味があるかないか。

そういった問いが立ち上がる前の、

ただ変化があり、

それに反応が起きている状態。

猫が跳ぶ前の一瞬。

ダーツが手を離れる直前。

咄嗟に身体が出る、その刹那。

そこでは、

上手くやろうとも、

失敗を避けようともしていない。

ただ、

条件が揃っている。

後天的天才とは、

この状態を「知らずに持っている人」

のことではない。

区別し、理解し、考える

人間であることを引き受けた上で、

それでも今ここに戻れる人のことだ。

理解を否定しない。

努力も否定しない。

ただ、

それらを使う場所を間違えない。

動くときは、世界に任せる。

振り返るときに、区別を使う。

この行ったり来たりを、

丁寧に続けていく。

それだけで、

動きは少しずつ変わっていく。

上手くなろうとしなくても、

更新は進む。

才能がなくても、

咄嗟の反応は育つ。

世界は、

最初から難しかったわけではない。

問題にしていたのは、

こちらだったのかもしれない。

この文章が、

誰かに答えを与えるものでなく、

自分の体験に戻る

小さなきっかけになれば嬉しい。

条件が揃えば、

動きは起きる。

その事実を、

少しだけ信じてみようと思う。