纏い
🌀「纏い」――身体を通して“何か”が動く在り方
私たちが日々、力を出し、動作を行うとき、その多くは「自分が動かしている」という感覚に基づいている。
しかし、実際には、自分の意図や力では到達できない領域がある。
それは、「動かされる」ことで開かれる世界である。
そこで提唱する概念が「纏い(まとい)」である。
■ 纏いとは何か
纏いとは、身体にまとわりつく“何か”に自分を預け、 それに動かされるように動く在り方である。
それは大きな手に操られるような感覚であり、
粘性のある液体の中で動かされるような抵抗の中での導きでもある。
あるいは、電気が走るように、目には見えぬ衝動が一瞬で全身を駆け巡る感覚。
この“何か”は、次のように多層的に捉えることができる:
- 大きな他者の手:四肢が外部の意思で動かされるような感覚
- 粘性のある空気・液体:まとわりつきながら導かれる流れ
- 電気的スパーク:微細で瞬間的なインパルスの反応
- オーラや氣:身体の周縁に広がる見えない働き
- 守護霊的存在:自己を超えた何かに導かれる感覚
こうした“何か”が身体を包み込み、内と外の境界を曖昧にしながらも、正しく動きを導いていく。それが「纏い」である。
■ 纏いが示す身体の構え
纏いにおける身体とは、「力を入れる」でも「脱力する」でもなく、
いつでも外からの作用を通せるように、“構えて、弛緩している”状態にある。
- 緊張していると、引っ張られたときに肩や股関節が破綻する
- 弛緩しすぎると、構えが消え、動きを支えきれない
- だからこそ、「陰陽の陰、虚実の虚」のような中庸の構えが必要
纏いにおける構えとは、いつでも動かされる準備ができているということ。
それは、自我の意図を手放し、感覚器をフラットにし、空間の中に自分を溶かすような状態である。
■ 自分で動かすのではなく、“通す”
纏いでは、自分の手や足を動かすのではない。
四肢は他者であり、自分はただそれを通す“媒介”に過ぎない。
その結果として起こる現象はこうである:
- 意識が末端から離れ、視野が広がる(例:助手席の方が風景をよく見えるように)
- 動作に迷いがなくなり、反応が速く、情報処理も増える
- 「動かしている」ではなく、「起こっている」に近づく
- 武術や芸術、スポーツなどで“無意識の高次パフォーマンス”が発現する
纏いとは、自己の存在を“媒介”にして、環境と一体となる方法論であり、
力の最適伝達を実現する、本質的かつ実用的な身体操作の入口なのである。
■ 最終的には纏いをも手放す
「纏い」というイメージも、最終的には捨て去らねばならない。
大きな手、粘性、電気なども、その状態に入るための比喩に過ぎない。
真に身体が空間とつながり、全体として存在しているとき、
そこにはもはや「纏っている」という認識さえもない。
- 「私が動く」ではなく、「世界が動く」
- 「腕を出す」ではなく、「空間がその形になる」
- 「力を使う」ではなく、「場が力を必要としない形に変わる」
■ 纏いとは、基本であり奥義である
この「纏い」は、誰もが最初に感じるべき基本の感覚であり、
同時に、高度な動きや知覚の扉を開く“奥義”でもある。
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武術、スポーツ、芸術、ダンス、音楽、介護、治療、瞑想──
あらゆる「人が身体を通して世界と関わる営み」に応用ができる。
纏いとは、身体に宿るすべての可能性を引き出す鍵であり、
私たちが本来持つべき「世界との調和的な関係性」を再発見する道でもある。